映画女優・高峰秀子の人生と死因を振り返る!養女の事実や夫・子供の情報紹介!

昭和の大女優高峰秀子!

子役としてデビューし、成瀬巳喜男監督や木下惠介監督といった世界的に有名になった映画監督の作品に多く出演した昭和の名女優高峰秀子さん。今の若い方はご存じない方も多いかもしれませんが「二十四の瞳」や「浮雲」など、昭和の日本を代表する映画に出演していたすごい女優さんです。

そんな高峰秀子さんの人生はまさに映画のように波乱万丈だったのです。いったい彼女の人生に何があったのでしょうか。今回は少女時代のエピソードから、女優として活躍した時代、引退後、晩年までを徹底的にご紹介します。

女優・高峰秀子のプロフィール!

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本名:松山秀子
生年月日:1924年3月27日
出身地:北海道函館市
身長:158㎝

高峰秀子さんは平山錦司さん、イソさん夫婦の元に長女として生まれました。兄は三人、弟が一人の五人兄弟です。家は祖父が蕎麦屋料亭、劇場、カフェなどを経営する実業家だったということです。かなりのお嬢様だったのでしょうね。

高峰秀子は養女だった!養母は誰?

高峰秀子さんには志げさんという伯母がいました。志げさんはある男性と駆け落ちしたのですが、この男性とは子供がいませんでした。それで高峰秀子さんの母親が高峰秀子さんを妊娠したときに、生まれたら養女としてもらう約束をしたということです。志げさんは男性とうまくいっていなかったということだったので、男性を繋ぎとめるために必死だったのかもしれませんね。

高峰秀子さんが4歳のときに母親が亡くなると、葬儀の翌日に志げさんは高峰秀子さんを連れて東京に行ってしまいます。こうして高峰秀子さんは養女として生きていくことになりました。4歳と言えば物心がついてくる頃ですから、ご本人はとてもショックだったでしょうね。

天才子役として話題に!高峰秀子の女優人生エピソード!映画・二十四の瞳や浮雲など

天才子役として活躍

高峰秀子さんは子役としてデビューしましたが、デビューのきっかけは偶然でした。義父と松竹の撮影所に見学に行ったところ、ちょうど野村芳亭監督の「母」という映画の子役のオーディションをしていました。そこで義父が高峰秀子さんをオーディションに参加させました。するとそのオーディションを主催していた野村監督の目に留まり、そのままその作品の子役に選ばれたのです。

芸名の「高峰秀子」は、養母が以前「高峰秀子」という芸名で活弁士をしていたのでそこから取ったということです。こうしてデビューしましたが、偶然撮影所に来たことでデビューし、その後大女優になったのですから、やはり生まれ持った強運の持ち主だったのかもしれませんね。それだけではなく、何十人もいる子役の中から選ばれたわけですから、とても可愛らしく存在感のある子供だったのではないでしょうか。

デビュー後は、五所平之助監督『大東京の一角』、小津安二郎監督『東京の合唱』などの映画や明治座の舞台など様々な作品に出演しました。しかし忙しすぎて小学校へ行く時間がほとんどなく、また養母は字が読めなかったこともあり、読み書きは自分で覚えたということです。

新東宝を退職しフリーの女優に転身

15歳になると高峰秀子さんの人気は絶頂になり、1年間で9本の映画に出演。またレコードを発売するなどアイドルとしての人気も高まってきました。そんな女優の杉村春子さんの演技に衝撃を受けます。子役時代から何となく女優を続けてきた高峰秀子さんでしたが、このとき女優として本気でやっていく決意をしました。

数年後。所属していた新東宝という映画会社の役員とお付き合いを始めた高峰秀子さん。そのお相手が横領と二股交際をしていたことにショックを受け、新東宝を退職しどの映画会社にも所属せずフリーの女優として活動することを決めました。しかしそのことで業界のルールに縛られることなく自由に多くの映画監督の作品に出演できることに繋がりました。

「二十四の瞳」「浮雲」などの代表作

フリーになって多くの名監督たちと映画を撮っていた高峰秀子さんですが、代表作といえば「二十四の瞳」と「浮雲」です。木下惠介監督の「二十四の瞳」では、戦時中に瀬戸内海の小豆島に赴任した女教師と島の小学生たちの交流を通して、戦争の悲惨さを訴えました。この映画は1955年にアメリカのゴールデングローブ賞で外国語映画賞を受賞するなど海外でも高い評価を受けました。

また成瀬巳喜男「浮雲」は農林省のタイピスト・ゆき子と同じく農林省の技師で既婚者の富岡との恋愛模様を描いた作品です。この映画は黒澤明監督が選んだ映画100本のうちの一つで小津安二郎監督もこの映画は自分には撮れないと評価しました。現代でも行定勲監督がこの映画を大好きな映画として挙げており、自身の映画「ナラタージュ」の中で主人公が「浮雲」を観るシーンを作ったほどです。

この「二十四の瞳」と「浮雲」は、海外のメディアが選ぶ日本映画ランキングによく登場する作品です。世界中の映画ファンから支持されている作品に出演している高峰秀子さんは本当にすごい女優さんなんですね。日本人として誇らしいです。

引退後はエッセイストとして本を出版!著書は?

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高峰秀子さんは1979年に女優を引退し、エッセイストとして本格的に活動を始めました。引退前も既に数冊出版しており『週刊朝日』で連載もしていました。その連載を書籍にした『わたしの渡世日記 上下』という本は日本エッセイスト・クラブ賞を受賞するほど、優れたエッセイストでした。

現在もエッセイを書く女優さんはいますが、高峰秀子さんはそのさきがけだったのですね。フリーになったりエッセイストになったりと、常に時代の先を行くその姿には脱帽です。

引退後は料理に関するもの、また夫の松山善三さんとの旅行話など、第一線の女優をしていたころにはできなかったことを書いたエッセイも出版しています。インターネットがない時代に引退した国民的女優の生活を知ることができるとなれば、ベストセラーになるのも納得ですね。『台所のオーケストラ』『おいしい人間』『にんげんのおへそ』など名著ばかりですので、ぜひ読んでみてください。

高峰秀子の夫(旦那)は松山善三!子供は?自宅は?

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高峰秀子さんは1955年に、当時木下惠介監督の元で助監督をしていた松山善三さんと婚約しました。木下監督の主導で記者会見が行われ、これが芸能人の婚約・結婚記者会見のはじまりと言われています。高峰秀子さんは芸能界の先駆者となることが多いですね。何事においても最先端を行く感覚の持ち主だったのでしょう。

麻布十番に新居を構え結婚生活をスタートさせた高峰秀子さんですが、質素な作りの家に住み、その後さらに老後暮らしやすいように小さくリフォームをして住んでいました。

実子はいませんでしたが、2009年にはエッセイの出版に関わり親交を深めていた『週刊文春』の編集者・斎藤明美さんを養女にしました。

高峰秀子の晩年は?死因は?

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晩年はほとんど人と関わることなく、家族での時間を大事にしていた高峰秀子さん。2010年に86歳のとき肺がんで亡くなり、喪主は夫の松山善三が務めました。莫大な遺産を遺しましたが「二十四の瞳」の舞台である小豆島に寄付金や高価な骨とう品、映画の資料などを送ったということです。

日本を代表する大女優さんでありながら、エッセイストとしても優れていた高峰秀子さん。さらに遺産を寄付するという素晴らしい人格の持ち主でした。本当に魅力的な人だったということがわかりますね。ぜひ高峰秀子さんの映画を観たりエッセイを読んだりして、その魅力に触れてみてください。