名俳優志村喬の逸話!「生きる」「七人の侍」など映画出演本数443!

世代をこえて語りつがれる名俳優志村喬さん

「生きる」や「七人の侍」などの映画出演本数が443本もある志村喬さんは、黒澤明監督作品にも常連で21作品も出演しています。

そんな映画とともに生きた名俳優の志村喬さんの来歴や出演映画、そして高倉健さんとのエピソードについてお伝えしていきます。きっと、読んでいくうちに志村喬さんの良さがわかってきますよ!

俳優・志村喬のプロフィール紹介!身長は?

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名前:志村喬(しむら たかし)本名:島崎捷爾(しまざき しょうじ)
生年月日:1905年3月12日(明治38年) 死没:1982年2月11日(昭和52年)76歳
出身地:兵庫県朝来群生野町
身長:170cm
職業:俳優

志村喬さんは、1905年3月12日に生野鉱山社宅に生まれます。お父さんは、三菱生野鉱業所の冶金技師で、祖父は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽・伏見の戦いには隊長として出陣した経歴を持つ武士だったそうです。

1911年生野尋常小学校に入学の頃は、きかん気のガキ大将だったようですが、学校内では優等生で過ごしていたそう。

お父さんが宮崎に単身転勤となり、その頃志村喬さんは肺病の為進級が遅れていたこともあったので、お母さんと兄弟と共に宮崎へ移り住むことに。

そして、宮崎県立延岡中学校(現在の宮崎県立延岡高等学校)へ転校し、そこで英語が得意で文学に憧れる一方、ボート部では校内有数のボート漕ぎの名手とも言われていました。

文学も運動もでき優秀でしたが、お父さんが退職した1923年頃から関西大学へ学費の援助がなくなってしまったことから、夜間の専門部英文科に転じ、昼間は大阪市の水道局の臨時職員として生計を立て学問に励みます。

その時に、英文科の講師で劇作家の豊岡佐一郎さんや、シェイクスピア研究家の坪内士行さんに出会い、演劇熱が芽生え始めたのでした。

志村喬の来歴

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1928年に自らを幹部とし、豊岡佐一郎さんに演出家を頼みこみ「アマチュア劇団七月座」を結成します。その頃には、芝居中心で水道局職員は欠勤続きでクビとなってしまい、大学も中退してしまいます。

1934年にサイレント映画の「恋愛街一丁目」で映画デビューを果たします。1935年に「忠次売出す」でようやくセリフのある役を演じる事ができ、それ以降は志村喬さんの良い演技が認められ始め良い役が回ってくるようになります。

そして、1936年第一映画で「浪華悲歌」でしたたかな刑事役で出演、演技力の上手さが知れ渡り広まります。

しかし、特別高等警察に連行され拘留されてしまいます。戦前では、新劇というヨーロッパ風な近代演劇に影響されているとして拘留されるのは日常茶飯事だったようです。

その拘留も志村喬さんは演技の糧として「わが青春に悔なし」で毒いちごと呼ばれる特別高等警察役を演じていて、やはり名俳優です。

1945年朝鮮映画社製作の今井正監督作品の「愛と誓ひ」のロケで朝鮮に渡り、黒澤明監督作品では、「生きる」などに出演しています。

その他にも東宝の怪獣映画の特撮映画に多く出演、有名な「ゴジラ」では山根博士役の科学者役でも知られています。

1955年には、志村喬さんが自身も認める代表作「男ありて」の主役のプロ野球監督を演じきりました。

1974年には肺気腫と診断されつつも役者魂をつらぬき、その時には紫綬褒章を受章、1977年には勲四等旭日小綬章を受章。

そして、1982年2月11日に慢性肺気腫による肺性心で慶応義塾大学病院で亡くなられました。志村喬さんの役者魂の遺品は、2010年東京国立近代美術館フィルムセンターに寄付されています。